クリーブランド (Cleveland)
1819年、アメリカ合衆国政府とチェロキー族インディアンとの公式連絡係であるチェロキー・エイジェンシーが、現在のクリーブランドとなっている場所の数マイル北、ハイワシー地域に移転された. そのインディアン・エイジェントはリターン・J・メグズ大佐だった. テネシー州のチャールストン市とブライズ渡し(クリーブランドの西約15マイル、24 km)はどちらも、1830年代後半にあったチェロキー族の強制移住で、主要な舞台になった.
1836年にブラッドリー郡を創設した議会立法が、郡庁所在地の設立を承認し、アメリカ独立戦争のキングスマウンテンの戦いで指揮官だったベンジャミン・クリーブランド大佐にちなんで「クリーブランド」と名付けられることになった. ブラッドリー郡創設のコミッショナー達は、アンドリュー・テイラーの家があった「テイラーズ・プレース」を郡庁所在地の場所に選定した. そこには優れた水源があったことが大きな理由だった. 1838年までにクリーブランドの人口は400人となっており、2つの教会(長老派教会とメソジスト教会)、オークグローブ・アカデミーと呼ばれる学校が1つあった. 市は1842年2月4日に法人化され、それから間もなく、市長と市政委員の選挙が行われた.
1850年代に鉄道が開通した後、クリーブランド市は急速に成長した. 南北戦争前夜に、ブラッドリー郡を含め東テネシーの大半と同様、合衆国から脱退するか否かについて意見が分かれていたが、1861年6月、テネシー州の脱退条例に反対することを投票で決めた. 北のハイワシー川に架かる鉄道橋は、1861年11月に起きた東テネシー橋梁焼却陰謀の一部として破壊された. クリーブランドは1861年から1863年まで南軍に占領されていた.
1870年代、クリーブランドは大きな成長を遂げた. 市内で最も象徴的な建物であるクレイクマイルズ・ホールが1878年に、オペラハウスおよび集会所として建設された. 1879年のハードウィック・ストーブ会社、1880年のクリーブランド毛織物工場、1884年のクリーブランド椅子会社など多くの工場も建設された. 1890年までに、市内には9人の医師、12人の弁護士、11の雑貨屋、14のグロサリーストア、3のドラッグストア、3の金物屋、6の肉屋、2つの帽子屋、ホテル2軒、靴屋1軒、酒場7か所があった. 1886年にラバに曳かせたトロリーが設立され、1895年には電力が引かれた. この期間に、クリーブランドの人口は1880年の1,812人から1900年の3,643人と2倍以上になった.
現在のクリーブランド中心街に建っている建物の多くは、1880年から1915年の間に建てられたものである. 1918年、キリスト教の一派であるチャーチ・オブ・ゴッドが聖書学校を設立し、それがその後にリー大学となった. クリーブランド商工会議所が1925年に設立された. 第二次世界大戦後に、この地域で大型工場が幾つか建設され、クリーブランドはさらに成長した.
地図 - クリーブランド (Cleveland)
地図
国 - アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の国旗 |
アメリカ合衆国(United States of America)の頭文字を取って「U.S.A.」もしくは「USA」、合衆国(United States)の頭文字を取って「U.S.」もしくは「US」、または単にアメリカ(America)とも称される.
通貨 / 言語
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